瀬尾 萌 さん 京都大学 経済学部卒業。大学卒業後、外資系証券会社 投資銀行部門にてM&A及び資金調達のアドバイザー業務に従事。その後、株式会社ビズリーチに転職、管理部門の業務に携わる。現在は、タイムセール型ECサイトLUXAを運営する子会社の株式会社ルクサに移籍し、経営戦略室長 兼 管理本部長を務める。 Q1.学生時代から現在のお仕事に至るまでのことを、教えてください。 大学時代は、勉強よりも体育会の運営に力を注いでいました。もともと居合道部に所属していたのですが、そこから体育会本部に派遣されて幹事長を務めました。体育会では大会運営や冊子作成のための協賛集め等をしていました。卒業後は、外資系証券会社に就職してM&Aや資金調達のアドバイザー業務に携わりました。 当時の仕事は「給与」と「成長できる環境」を重視して選びました。ドキュメント作成や営業など、朝9時から深夜2時まで仕事漬けの毎日で、とにかくバリバリ働いていましたね。たまに夜11時頃に仕事が終わると落ち着かなくて、時間を持て余してDVDを借りに行ったりして(笑)。そこで2年半ほど働いた後、転職して今に至ります。 Q2.今はどのようなお仕事をしているのでしょうか。 主に管理部門の仕事をしています。簡単に言うと「組織が継続的にうまく回るように、環境を整える」のが私の仕事です。もう少し具体的には、今はIPO準備と業務改善を行っています。IPO準備は、例えば、労務管理をきちんと行って残業代を支払っているか、社内の作業がマニュアル化できているか、計画通りに事業を実行・管理できているのか等、企業が上場するうえで求められることの整備です。業務改善では、業務フローや人的配置を見直すことで、仕事の効率化を図っています。 Q3.希望通りの環境(外資系証券会社)で働いていたのに、なぜ仕事を変えようと思ったのですか。 単純に「合わないな」と思ったからです。私の実家は自営業で、両親が自由に働くのを見て育ったので、それが当たり前だと思っていました。でも、サラリーマンの働き方は必ずしもそうでないと、就職して初めて気づいたんです。前の会社は大企業で年功序列的なところがあり、上からの指示を忠実に実行できる人が評価される文化でした。しかし、私は学生時代から体育会本部のトップとして統括してきたこともあり、「言われたことを実行するだけ」で働くのは面白くなかったんですね。 特に「なんか違うな」と思ったのが、とある担当プロジェクトで自分が成果をあげたときのことです。周りから仕事を認められて自分も達成感があった一方で、「知識がついて色々分かった上で、うまく物事を仕切れているな」という評価を上司にされたときに、会社が評価するポイントと自分が大事にすることが違うことに気づきました。そのときに「向いてないんだな」と改めて感じたんです。私は、リスクをとった大胆な意思決定が評価されるような環境のほうが面白いだろうな、と思いました。 Q4.では、どのように今の仕事を選んだのでしょうか。 前職は「給与」と「成長できる環境」という軸で選びましたが、自分にとっては、「意思決定できる環境」が重要だと気付いたので、その点を重視して仕事を探しました。また、前職を通じて「お金じゃないな」と気付いたこともあって、給与に関してはあまり気にしなくなりました。もう一つは、未経験の私でも「管理部門をやらせてくれるところ」を探しました。 実は、両親がNPOの活動をしていて、花形である代表の母が「できます!」と格好良いこと言って案件を何でも持ち帰って来て、事務局の父が裏側で怒りながらサポートしてそれを何とかするという(笑)、そういう構図が両親の間であるんです。私は両親共に尊敬しているのですが、そうした光景を見て父のように裏方で支える仕事をしたいと思いました。これらを踏まえて管理部門の業務をさせてくれるベンチャー企業を探し、今の会社に勤めることになりました。 Q5.今の環境や選択には満足していますか? 満足しています。特に、意思決定権の在り方が全く異なり、自由に物事を決められるのがとても良いですね。 ところで、こうして自分の選択について振り返ると、私の価値観の原点は両親にあるのだと思いますが、学生の頃には全く気づきませんでした。このことが分かるためには、社会人経験が必要だったんだな、と思います。新卒のときにも色々とロジカルに考えましたが、こじつけがうまくできちゃうので、結果的に自分に合わない会社に入ってしまいました。とても良い会社だったんですけどね。最近は、自分の感情や直感にストレートに行き着くために頭を使うのが大切だな、と感じています。 Q6.最後に、学生へのコメントをお願いします! 仕事選びに関して、学生は働いた経験が無い中で意思決定をしないといけないので、情報の扱い方が重要です。東京の学生に関しては、情報収集も良いですが、消化不良にならないよう自分としっかり向き合うことを大事にして欲しいです。他の地域の学生はイベントや情報も少ない分、逆に自分と向き合いやすい環境にあると思います。「東京にいないから」とか言いわけにしないで、それを強みとしてください。情報収集は大事なんですが、結局のところ自分の経験が一番貴重な情報です。人から聞いた情報はそれに過ぎないですから。なので、ちゃんといろんな経験をして、自分と向き合って欲しいですね。 [content_block id=307]...

辻本 知範 さん 東京大学大学院 工学系研究科修了。学生時代はアメリカンフットボール部に在籍。大学院時代には地質工学に関する研究を行う傍ら、STeLA(理系学生による国際団体)の運営に携わる。同院在籍中に弁理士試験に合格。大学院修了後は株式会社ディ・エヌ・エー(DeNA)に入社。モバゲーのマーケティングや中国での拠点立上げ等に従事。 Q1.どのような学生時代を送っていたのかを教えてください。 大学時代はとにかくアメフト漬けの生活でした。単位をとるよりも部活優先で、勉強はあまりしていなかったですね。部活引退後は、一旦就職活動もしたんですが、自分は理系だったし親が研究者だったこともあって、大学院に進みました。院では地質工学に関する研究をしました。ですが、半年で研究というものが自分には合わないと気付きました(笑)。一方で、日本の研究室の閉鎖性に課題を感じるようになり、技術とビジネスを繋ぐようなものに興味を持つようになりました。そこで、弁理士の資格をとったり、STeLAという各国の理系学生を集めて合宿や議論を行うような団体で活動をしていました。 Q2.今は、どのようなお仕事をしているのですか。 DeNAに新卒で入り、最初はモバゲーのマーケティングを担当しました。データからユーザー動向を把握したり、エンジニアやデザイナーなどと話して物事を進めたり、ユーザー対応をしたり、企画の矢面に立って何でもする感じですね。その後、中国に行って現地で拠点を立ち上げる仕事をしていました。訳あって一旦会社を辞めていたんですが、またDeNAに復帰する予定です※。 ※2014年5月のインタビュー収録当時。 Q3.学生時代の専門である地質工学や、弁理士の資格を活かした仕事に就こうとは思わなかったのでしょうか。 元々は、技術とビジネスの交差点のようなところで、就職先を探そうと思っていたんです。で、最初は弁理士の資格を活かした知財関係の仕事をしようと思ったのですが、技術職として働いて専門性をもたないと、弁理士としてバリューが出せないことに気づきました。また、弁理士を活かした就職先として特許事務所もあったのですが、明細書を書く仕事が大切だとは分かりながらも、若いうちにするのは気が進みませんでした。技術職や特許事務所での仕事が自分には合わなそうだな、と漠然と感じたんですね。 Q4.では、実際に今のお仕事をどのように選んだのですか。 ゼロベースで考えることにしました。つまり、理系院生であることや、技術マネジメントや資格を活かした仕事、といったことを一旦全部忘れることにしたんです。 過去を思い返すと、学部時代の就活で商社や銀行などの大手に勤める先輩のOB訪問をした際に、少し違和感がありました。既存のお金を稼ぐ仕組み・システムの中で大きなプロジェクトを回している先輩たちを凄いなと思う一方で、自分がやるイメージが湧かなかったのです。大手企業では、その企業が過去に確立してきたビジネスの枠組みを最大限に活用してプロジェクトを回すことが求められるけれども、どちらかと言えば自分がやりたいのは「一から自分が決めてガンガン進めること」だなぁと。 そこで、自分が物事を一から推進できる「鍛えられる環境」をベースで仕事を考えるようになりました。その観点で、プロジェクトのサイクルが短く多くのフィードバックが得られるところ、売上が伸びて人手の足りない勢いのあるところに行こうと思うようになりました。で、それらに合致するIT業界で仕事を探し、最終的には、会社の文化や社員の雰囲気が自分に合っていたDeNAに行くことにしました。 Q5.違和感の理由を探って方向転換したのですね。その選択に今は満足していますか。 「鍛えられる環境」という点で非常に良い選択だったと思います。仕事はとてもきつかったし、スピード感や心構えなどが全く異なっていました。就職までは「自分はデキる」と思って天狗になっていたんですが、その鼻はポッキリ折られてしまいました(笑)。 Q6.最後に、学生へのコメントをお願いします! 人それぞれ考え方は違うと思うので、たくさん悩めば良いと思います。悩む点では2つのポイントがあります。1つは、意思決定の期限を決めること。その期限まで悩んで、その期限までの情報をもとに、決めれば良いと思います。もう1つは、一旦腹を決めたら、選んだ道を正解にする努力をすること。「こっちを選んでよかった」と自分でも思える程にやりきることが大事です。 [content_block id=307]...

小泉 愛子 さん 中学高校時代は水泳漬けの日々を過ごした。大学時代はNPO団体に所属し、ビジネスのイベントに参加したり課外活動に参加。会社のビジョンを重視し、「皆の目標が一致している組織は強い」という自分の考え方と合致していた人材系の会社に就職。 Q1.今はどんなお仕事をしていますか。 実は、今働いていないんです。4月末で退職しました。次の仕事はまだ決めていません。「根本的に自分が社会の中でどういう役割を担っていきたいのか」というのを模索中です。 Q2.以前はどんなお仕事をしていましたか。 女性に特化した人材の会社に勤めていました。そこでは主に、営業や新規事業の立ち上げ、新卒採用の人事の責任者を行っていました。 Q3.なぜ仕事を辞めようと思ったのですか。 最初は「会社をやめる」という発想自体なかったのですが、、(笑)。新卒から丸6年、かなり面白く仕事をさせて頂いていましたが、あるプロジェクトを開始してから違和感が出てきました。でも「辞める」という言葉すら浮かばないくらい、どういう状態なのかよく分からないまま走り続けていました。 そんな時に、周りの人に違和感があることを相談したところ、「人はどこでも生かされる場所が絶対にあるから、成果も出たんだし、もし違和感があれば、その感覚にしたがって動いた方が絶対に上手くいくようになる。」と言われました。確かにそうかもしれないな、と納得しましたね。もともと感覚的に行動するタイプなので、そのアドバイスがきっかけになり「会社を辞める」という選択肢が出来ました。 Q4.「会社を辞める」という選択肢が出来てから、実際に行動に移るにあたり何があったのですか。 悩み始めてから1年が経とうとしていた頃に、会社の事業ビジョンが変わった(正確には新しく作られた)んです。もともと、その会社に就職することに決めた一番の理由は、会社のビジョンである「best basic style(時代に合わせて価値を提供していく)」に共感できたからでした。しかし、ビジョンが変わり、仕事の対象が限定され、違和感がもっと大きくなるのではないかと考え、ビジョン変更の発表があったミーティング直後に、上司に「退職したいです」伝えました。 Q5.今、会社を辞める選択をしたことに満足していますか。 満足しています。まだ次のアクションが決まっていないので未知数な部分はありますが、もし辞める決断していなかったら、ずるずる引きずってしまって、仕事を続けるための理由を探すことになっていた気がします。日本では、入社したらずっと間髪入れずに仕事を続けるのが一般的だと思うのですが、そうするとキャリアチェンジはなかなか出来ないし、自分のことを冷静に考え直す機会が持てないと思うんです。 でも、一旦立ち止まり、海外に行ったり、視野を広げることで、自分と向き合う時間を作り、ゼロベースで考えたいと思っています。私は今、まさにその期間と位置付けて、感覚に従って良かったと強く思います。(満足するためにこの期間を過ごしていると言った方が正しいかもしれませんが。笑) Q6.最後に、学生へのコメントをお願いします! 是非とも学生の皆さんにオススメしたいのが「自分の思ったことを言葉にすること」です。自分で出来ることは限られており、周りの協力が必要となる場面がたくさんあると思います。ですが、その時にきちんと言葉に出来ないと、周りに自分の希望を伝えられず、助けてもらえません。なので、日記を書くなどして、日頃から自分の考えや思いを整理するよう心掛けてみてください。[content_block id=307]...

南日 政俊 さん 立教大学 経営学部 国際経営学科卒業。在学中にSingapore Management Universityに1年交換留学した。大学卒業後は、大手製造業に就職。しかし、大企業であるため、自分が主導となって働けるようになるためには長い年月がかかることを知り転職。現在、外資系コンサルティングファームで活躍している。 Q1.今はどのようなお仕事をしているのですか。 コンサルの仕事をしています。具体的な仕事内容は、プロジェクトによって異なります。最近携わった業務は「海外での統括会社を作りたい」というクライアントに対して、どんなことをすべきかを提案したり、リスクを考えたりするものです。 Q2.学生時代から今のお仕事に至るまではどのようなことをしていましたか。 大学時代で印象に残っているのは、大学2年生で1年間留学をしたことです。そこでたくさんの刺激を受け、自分の考え方が色々と変わり、海外での生活や仕事を、リアルに考え始めました。そして、「自分は日本だけでなく海外で働くことでワクワク感を得られる」と気づきました。なので、とりあえず早く海外に行けることと、父親や祖父が製造業をしていたことから、日本の製造業を海外に広めたく、ファーストステップとして大手製造業に就職しました。仕事内容は、営業や経営で、「自社製品をいかに多く売り、利益を出すか」を日々考えていました。 Q3.なぜ転職しようと思ったのですか。 自分の裁量を持って働けず、制限されていると感じたからです。大きな企業なのでたくさんの部署があり、私の担当部署では、自分が思い描いていた製造業に直接関わることが出来ず、サブ的な印象を受けました。また、私は昔から自分主導でやっていないと気が済まないタイプだったので、30歳を超えてからでないとなかなか指示を出すのは難しい職場だと知り、そのスタート地点に立つのに、10年間は待てないと思いました。 Q4.学生時代から、考え方に変化はありましたか。 変わらないところと変わったところが半分ずつあります。変わらないところは、自分自身が感覚的に現状維持っぽいのが嫌で、毎日毎日同じことをルーティーンでやるのはつまらないと感じることです。一方で、変わったところは、実現手段を考えるようになったところです。学生のときはまだ考えが浅く、自分のやりたいことを実現する方法が考えられないまま、「あれやりたい、これやりたい」と思い付きで言っていましたが、それを実際に「じゃあ、どうやってやるか」を考えるようになりました。 Q5.転職という選択をしたことに、今は満足していますか。 今のところ満足しています。転職して、とても解放された気分ですね。今の仕事は、とても拘束時間が長く、プレッシャーも大きく、一人でやらなくてはいけないことばかりですが、問題にぶち当たった時に自分で解決できる力を養うことが出来たり、グローバルな視点で様々なことを見ることが出来て、視野が広がるので転職して良かったと思っています。暫くはこの環境で頑張りたいと思っています。 Q6.最後に、学生へのコメントをお願いします! やりたいことは日に日に変わるし、周囲の人や会社によっても変わりますが、変わって全然構わないと思います。「自分が何をやりたいのか」を考えて、思い立ったらすぐ行動ですね。実際にやってみて自分の理想と違っていたら、改善策を考えて修正すればよいのです。試行錯誤しながら自分が本当にやりたいことを見つけていって下さい。海外に行ったり、外国人と接すると、自分の視野が広がると思います。悩まないでまずは挑戦することが大切だと思います。[content_block id=307]...

坂根 遼 さん 大阪大学基礎工学部システム科学科卒業。同大学院生命機能研究科修了。大学入学当初は情報科学科に在籍していたが、在学中に生命系の勉強が出来るシステム科学科に転学科。大学院では神経の研究をしていた。就職活動時は、メーカー志望で活動を始めるものの、最終的にメガバンクに就職。その後転職し、現在は総合系コンサルティング会社にて勤務している。 Q1.学生時代は何を学んでいましたか。 高校時代はAI(人工知能)に興味がありました。なので、AIを研究する上で必要な知識を付けるために、大学入学時は情報科学科を選び、プログラミングを専攻していました。在学中、生命そのものに興味が移っていったため、3年次には転学科してシステム科学科に移り、生物を専攻しました。また、3年生のときには「単純にこのまま大学院に行くのもどうかな」と思い、一つの選択肢として就職活動にも挑戦しました。その時に「自分に強みが何もない」と感じ、何かしら強みとなる専門分野を持ちたいと思ったので、大学院に進みました。その頃にはAIから生物に興味が移っていたので、大学院では神経について研究をしました。当時は、「自分が今どういうことをしたいか」ということだけを考えて、その時に一番興味の持てることに全力で向き合っていました。 Q2.お仕事はこれまで何をされてきたのですか。 大学院修了後、銀行に就職し、主に企業向け融資を担当していました。今は転職して、コンサルタントの仕事をしています。 Q3.専門分野があったにも関わらず、全く違う職種に進んだきっかけはありますか。 私の転機は大学1、2年のときに、NPOであるAIESECで活動をしたことです。主な活動内容は、海外でのインターンシップ希望者向けに、インターンシップ可能な企業先を斡旋するというものでした。その活動を通し、いろんな人に出逢い、自分の学んでいる分野と全く違う世界を知ることが出来ました。そして、「いかに自分の生きている世界が狭いか」ということを痛感しました。理系文系に関わらず様々な学生に出会えたこと、また、同じ理系学生でも、例えば途上国の農産物を適正な価格で販売するフェアトレードを学びたいという学生に出会えたこと。これらを通して多くの刺激を受けました。それがきっかけで転学科を決意し、更には専攻の枠を超えて自分が将来何をしたいのかを考えるようになりました。 Q4.実際、どのように就職活動したのですか。 先述の通り、学部時代でも一度就活をしましたが、実際に就職に至った就活は大学院生の時に行いました。大学入学当初に出会った友人はみんな理系で技術職を目指す人ばかりでしたが、AIESECや他の団体での活動を通して“理系だけれども専門に捉われず就職を考えている人”にたくさん出会えたので、いわゆる“文系就職”への抵抗感もなく、幅広い視野をもって様々な分野の会社を受けました。 最初はマーケティングや商品企画に興味がありメーカーを受けていましたが、次第に、「メーカーで、自社商品だけに携わるのは面白くないかもしれない」と思うようになりました。「一つのことにすべてを捧げること」に抵抗感があったんです。そんな時、たまたま銀行のセミナーに参加して、銀行員は沢山の企業や様々な業種の人に接することが出来る仕事だと知りました。新しい出会いがあり、刺激をもらえそうな職場で、自分の性格にぴったりだと感じ、就職先として銀行を選びました。 Q5.専攻とは異なる就職をしたことに、今満足していますか。 はい、良かったです。「今、理系の研究職をやっていたいか?」と言われたら、そうではないです。想像の範囲ではありますが、もし研究職に就いていたら、社会人4年目ではまだ研究のための下積み期間で、仕事の裁量や自由度も今とは違ったのではないかと思います。今、私はコンサルタントとして割と自由に仕事をさせていただいていますし、様々なことに挑戦出来るので、飽き性な自分に合っていると思います。 Q6.最後に、学生へのコメントをお願いします! 自分が実際にやって良かったと思うのは、色々な場所に出向いたことです。高校時代から自分が興味の持ったものには積極的に参加していて、社会人になった今でも、読書会や勉強会に足を運び、新しいコミュニティに参加するようにしています。たとえ、参加したコミュニティにいる人の興味と自分の興味が全然違ったとしても、新しい価値観や考え方に触れることの出来る良い機会だと思うので、行ってみると面白いですよ。 自分に身近な世界だけではなく、未知の世界に一歩踏み入れてみる勇気が大事だと思います。そして、その時自分が一番興味の持てることに注力し、頑張ることがも大切だと思います。最初自分が思い描いていたことと違うことをしていたとしても、振り返ってみると最終的にはすべて繋がり、成長出来るはずです。[content_block id=307]...

崔 智英 さん 韓国出身。韓国の理系学生向けプロジェクトで来日し、広島大学工学部でバイオを専攻した後、東京大学大学院にて生物化学の研究に励んだ。弁理士を目指していたが、大学院時代のビジネスプランコンテストへの参加等をきっかけに、金融関係の仕事に就職し、現在活躍している。 Q1.今はどんな仕事をされていますか。 今は、金融関係の仕事をしています。お客様の投資に関わるポートフォリオ※を分析してアドバイスをするために、あらゆる商品を扱い、幅広い知識を学び、いろんな人と仕事が出来、いろんなスキルが身に付ける事が出来る部署です。 ※ポートフォリオ: 金融や投資の分野において、様々な異なる種類の運用資産の構成状態のことをいう。 Q2.学生時代をどう過ごしていたのですか。 私は、韓国出身で高校までは韓国の学校に通っていました。中学校まで自分は文系だと思っており、そのころの夢は、外交官・教授・弁護士でした。ただ、高校は、縁あって競争率の高い特殊校のサイエンスハイスクールに進学することができたんです。授業はすごく優秀な人ばかりでとても大変で、「この人たちとは戦えない、スタート地点が違いすぎる」と思いました。周りの成績が良すぎて、苦しかったです。「同じことをやっていても歯が立たない」と感じました。そのころ、ちょうどヒトゲノムが解明され、これからはバイオの時代と言われていて、この分野であれば、周りとのスタート地点も同じで、興味もあり、文系要素も強く、「自分に合っている」と思い、バイオの勉強を頑張ることにしました。 また、ちょうど同じ頃、先生が「これからは弁理士の時代だ」という話をしていたので、弁理士という職業を調べてみて、特許を扱う仕事だと知りました。昔の夢の一つが弁護士だったこともあり、自分に向いていると思い、「バイオの弁理士になる」と新たに将来の夢を決めました。弁理士になるために、日本へ来て、バイオを猛研究し、アレルギーに関する特許も取りました。自分が特許を出願する側になれば、弁理士になった時に発明者側の気持ちも分かるのではないかと考えていたからです。 Q3.なぜ、そこまで勉強していながら弁理士にならなかったのですか。 大学院時代が大きな転機となりました。そのころは、研究よりも他のことに興味を持つようになり、ビジネスプランコンテストに出たりしました。また、大学院1年だったので、就職も視野に入れていました。「弁理士になる」という目標に向けて、「勉強を続けて博士に行き、特許を発明する側の立場を深く理解する」か「特許事務所や製薬会社での特許に関わる仕事に就く」か、という選択肢を考えていました。 しかし、一緒にビジコンに出た仲間から「僕は弁理士の資格を持っていて仕事内容も知っているが、仕事の幅が限定的で、君には合わない仕事だと思うよ。」と言われ衝撃を受けたのです。そこで、改めて自分の夢について考えるきっかけを得ました。 Q4.どうして金融の仕事に就職することになったのですか。 色々悩んでいた頃、新聞を見てみると、紙面では、大きく金融会社が取り上げられていました。私の知らないすごい世界があったんです。そもそも、自分が弁理士になりたい理由は「文系と理系をつなぐ仕事をしたい」という思いからだったので、「他の仕事でもそれを実現できるものはあるのでは?」と考え直し、そこで思いついたのが投資でした。弁理士になったら、人の特許を守ることは出来るけれど、その発明に投資することによって、より多くの人がその発明品を知って、利用できる環境を作ることの方が人々に貢献し、価値のあることだと思ったのです。 そして、きちんと技術まで知っている投資家がいたら、利用者も安心できると思いました。また、自分が投資をすることで、理系の自分が知らない経済や会社を見る力を養えたり、自分が当時欲しかった、知識・将来のための資金・将来のための優秀な方とのネットワークを得られると思いました。そこで、夢を弁理士から、投資の分野に変えて就職しました。 Q5.弁理士ではなく金融関係の仕事に就職し、今、満足していますか。 夢を変えて就職したことには、仕事内容やお給料の面でも満足していますが、今の自分には満足していないです。入社したときには、3年で今の会社を辞めようと思っていました。ベンチャーキャピタルのような大きな会社でたくさんの経験をし、知識を身に着け、次のステップに進みたいと思っていたのです。ですが、まだ次のステップに進めてないんです。だから今は、まさに新たな転換期で、次のステップに進もうと思っているところです。 Q6.最後に、学生へのコメントをお願いします! 若くて、何も失うものがない学生のうちにこそ、いろいろやりたいことに挑戦してほしいです。すべてを捨てて、新しいものに挑戦するとか、ベンチャーを立ち上げるとか。社会人になるとリスクも大きくなり、挑戦するのが難しくなりますからね。 尊敬する上司に、「エリートは偉くなれない。他の人がやらないような大きな挑戦をしてこそ大きな評価をえられるのだ。」と言われたことがあります。だからリスクも大きいです が、新しいことに挑戦していきたいです。私がいつも心がけていることは、「あえて周りの人と違う道を選ぶことで、ナンバーワンじゃなくてオンリーワンになりたい」ということですね。周りと違うことをするからこそ、周りよりも価値のある人間になれると思います。 [content_block id=307]...

古川 秀 さん 法政大学法学部卒業。学生時代は、インターンやインカレサークル(複数の大学の学生で構成される団体)、テニスサークルなど複数の団体に所属して活動。「人の自己実現に貢献したい」という想いから卒業当初は求人広告の出版会社に就職するが、後に工業原料の化学品を扱う専門商社という全く別の業界へと転職。 Q1.学生時代をどう過ごしていたのか、教えてください。 大学の講義は当時の自分にとっては退屈で、もっぱらインターンとインカレでの活動に没頭していました。この二つの活動が、今の自分の「仕事選びの軸」を形作る「原体験」になっています。 第一にインターン先では、フリーペーパーの編集部で取材や記事の作成、流通経路の開拓などほぼ全ての工程を任されていました。かなりのスパルタで仕事はとても大変だったのですが、あるときインタビュー対象者が、「古川君、ありがとう。君のインタビューのおかげで、明日からも頑張れるよ」と言ってくれたんです。その瞬間に疲れが吹き飛んでしまって。それ以来、「自分の仕事で誰かを元気に出来る。そんな働き方がしたい。」と考えるようになりました。 第二に、国際協力のために企画等を行っていたインカレサークルで、インターンでの経験を活かして「ブラウ」というフリーぺーパーを創刊しました。この雑誌の目的は、国際協力を通じた自己実現を手伝うことでした。ノウハウのあった僕が仲間を指導していったんですが、創刊の過程で仲間の目標達成に貢献することができ、すごく楽しかったです。元々「人を元気にしたい」とは考えていたのですが、この経験を踏まえて「人の自己実現に貢献することで、その人を元気にしたい」と思うようになりました。卒業して5年程した頃、そのサークルに立ち寄ったことがあります。ブラウはまだ発行されており、「人の自己実現に貢献する」という創刊の思いは引き継がれていました。感慨深いものがありましたね。 この二つの「原体験」が元になって、「人の自己実現に貢献したい」という「仕事選びの軸」が出来、求人広告の出版会社に就職しました。 Q2.何故転職を志したのでしょうか。 転職した理由は、仕事を取り巻く外的環境が変わったからです。2009年の金融危機を契機に求人広告が激減し、求人の数が求職者に対して40パーセントしかない状態に落ち込んでしまいました。「人の自己実現に貢献したい」という目標も達成できなくなってしまって。それで、「人を元気にするためには、先ず雇用を生み出す事業を立て直さないといけない」と考えるようになりました。 Q3.状況の変化に応じて、具体的にどのようなことをしたのですか。 「事業を増やし、元気にする」仕事とは何かと考えていたときに、スカウト会社に転職した以前の上司に商社の仕事を紹介されて、転職を決めました。商社は需要と供給のギャップを調整し、サプライヤーとバイヤー双方を満足させる仕事なので、事業を元気にすることができると考えたのです。環境が変わったから自身の夢の実現方法が変わっただけで、「人の自己実現に貢献したい」という想いは変わっていません。変わらない理由は、原体験が強かったからでしょうね。 Q4.今はどのような仕事をしているのですか。転職したことに後悔はありませんか。 顧客のビジネスに貢献するのが私の仕事です。具体的には、顧客の原料の調達方法を改善したり、顧客の工場での生産効率が向上されるような製造工程や原料・副資材・機器などを提案したりしています。今の仕事は面白いし、転職したことを後悔はしていません。ただ、顧客だけでなく業界全体に対して貢献できるビジネスを行うだとか、そのための知識を吸収するだとか、チャレンジしたいことはまだまだ沢山ありますね。 Q5.最後に、学生へのコメントをお願いします! 自身の原体験(軸)となるような強烈な経験をしてほしいです。感情の振れ幅(ブレ)の大きい出来事を見つけるべきだと思います。ブレが大きくないと、「自分は何が好きか」などといった自身の軸がわかりません。学生の間に色々なことにチャレンジすることで、そういった軸を見つけてほしいですね。 [content_block id=307]...

岡田 香 さん 慶応義塾大学総合政策学部卒業。当初は環境問題に関心を持って環境系のNPOに所属し、大学でも専攻課題として研究していた。一年後期に感じた疑問をきっかけに専攻を変更し、キャリア教育に興味を持ち始める。卒業後は大手教育会社に就職。 Q1.どのような学生時代を過ごしていたのか、教えてください。 高校生の時は、環境問題について勉強しようと思って大学に入りました。そもそもの原点は、高校でアラスカに留学し、環境問題に興味をもったことです。アラスカに住んでいる方々は氷河が溶けていることを目の当たりにしているせいもあり、温暖化への危機感をとても強く持っていました。 その一方、日本では環境問題に関する危機感が薄いように感じ、「環境問題を身近に感じてもらえるよう啓発活動を行うことで、日本人にも危機感を抱いてほしい」と考え、大学1年間はそのような考えのもと勉強していました。 Q2.では、今は環境系の仕事をしているのですか。 実は今は、環境系の仕事ではなく、高校生の学習や進路支援などを行っています。具体的には高校生向けの進路情報誌の誌面を作るのが今の私の主な仕事です。高校生に分かりやすい形で受験や進路に関わる情報を提供し、彼らが少しでも将来を考えるヒントにしてほしいと思っています。 Q3.どのようなきっかけで、「環境問題」から興味が移ったのですか。 そもそも大学で1年間環境のことを専門的に学んでみて、環境問題に私そこまで興味ないなと思ってしまったんです。環境系の講義もたくさんとったのですが、全くわくわくせず...

松原 浩太 さん 都内私立大学入学後、2年次に慶應義塾大学へ編入。その後大学のプログラムによりフランスに留学。フランス工学系大学院修了。慶應義塾大学大学院 理工学研究科修了。現在は政府系開発援助機関に勤務。 Q1.今のお仕事について教えてください。 現在は政府系開発援助機関で働いており、開発途上国相手に開発金融業務をしています。相手国を支援すると共に、日本企業と相手国の結びつきも強めるような活動です。学生時代に途上国経験はほとんどありませんでしたが、留学経験を活かし中東諸国の担当をしています。 Q2.学生時代のことについても教えていただけますか。 都内私立大学に入学して1年目は建築を学び、2年次で慶應義塾大学に編入し機械工学や電気工学を学び、更には3年目~4年目でフランスに留学して機械工学から経営工学まで学ぶという、非常に紆余曲折あった学部時代でした。 フランスでは、語学や人種・文化の壁にぶつかりながら、落第しまいと必死に勉強する毎日でした。また、飛行機で隣に座った研究所の先生と意気投合したのがきっかけで、留学中にフィンランドの研究所でも半年間働きました。その後は、インドネシアを放浪したりシンガポールのIT企業で半年間働いたりしてから、慶應義塾の大学院に戻りました。 大学院で所属したのは物性物理の研究室で、半導体関連の研究をしました。今までの学んだ内容と異なったことに加え、日本の暗黙のルールに自分を再位置付けする中で、正直何がしたいのか自分でも分からず非常にモヤモヤしていました。大学院は、ギリギリ卒業させてもらったという状態でしたが、研究室の先生や友人からは学問への姿勢だけでなく多くのことを学ばせてもらい感謝しています。 卒業後は昔1ヶ月ほどインドネシアに滞在した経験だけで途上国に行きたいなと、理由もなく考えるようになりました。そして、そのまま大学院の専門とは一切関係のない現在の会社に就職しました。 Q3.非常に変化に富んだ学生時代ですね。これまで「新しいことへの挑戦」や「変化」にためらいを感じたことはないのですか。 もちろんためらいは感じます。今では、徐々に面白そうなことに対しては比較的ためらい無く選択できるようになりましたが、昔からそうだったわけではなく、初めの変化点となる慶應義塾大学編入はかなり悩みました。大学入学に関しては、建築を学ぶ兄の影響を受けて進路選択しましたが、デザイン・哲学・歴史のような客観的基準で測れないものを重視する学問がどうも好きになれず、次第に建築を続けることに違和感を覚えるようになったのが編入を考え始めたきっかけです。 そこで進路を再考し始めたのですが、他の学校へ移る選択肢なんて最初は全くありませんでした。というのも自分で「敷かれたレールから外れたらいけない」と無意識に思い込んでいたのです。当初は、現状に違和感を持ちながらも、変化することに対して不安があり、自分が今までで一番悩んだ時期でした。 Q4.では、何がきっかけで学生生活がそんなに変わったのでしょうか。 ずっと悩んだものの、とにかく「新しい環境」に行きたいと思いました。そしたら、慶應義塾大学が2年次から編入可能だったので、試しに受験してみたところ、合格を頂きました。正直受かると思っていなかったので、合格通知を頂いた後どうするか迷ったのですが、「“受験した”という、その行動こそが自分の意志なのだろう」と思い至り、編入を決意しました。 それが自分にとっての大きな起点となりました。一旦自分の進路を変えたことで、「1回リセットしたのだから、何回リセットしても一緒だろう」と思うようになってしまって(笑)。それからは面白そうな道を積極的に選ぶようになりました。やっぱり、頭で考えるとためらいが出てくるので、最後は直感で決めることも重要な気がします。 Q5.これまでの選択に満足していますか。 人と異なる道を選ぶということは苦しいことも多かったですが、できる限り過去を肯定し後悔しないように今を生きています。現在のいわゆるサラリーマン生活も居心地が良いです。その一方で、居心地の良さの中で感覚が鈍化していき、給料や世間体などのサラリーマンの物差しだけで物事を見るようにはなりたくないなとも感じます。定年までのスケジュールをこなす以上に、自分自身の人生を送りたいという思いもあります。今の仕事は非常に面白くてやりがいのあるものですが、もし週末まであと何日だとカウントダウンし、週末だけを楽しみにするようになったら将来について考え直そうと思っています。 Q6.最後に、学生へのコメントをお願いします! ただでさえ、自分のことで頭がいっぱいなのにメッセージなんて恐縮ですが、あるとすれば、進路や職業選択の悩みは学生だけのものではないと言いたいです。学生だけでなく、何か目標を持って頑張ろうとしている人など全ての人が進路、大きく言えば人生について悩んでいるのだと思います。悩まないということは悟った(諦めた)と同義であるなら、そこにたどり着くまでは悩むのが健全なのかもしれません。 あと、学生時代にやっておいて良かった経験は、ヨーロッパへ行ったことです。日本で留学と言うとアメリカが主流ですが、同じ海外でもヨーロッパは長い歴史に基づいた価値観が形成されています。向こうで“慌ただしくない生活”を送るのは良かったですよ。 最後に、僕は、誰でもできるけど誰もしなかったことをやるような生き方に憧れます。生き方の答えは自分の中にあるのだと思いますが、それを見つけるためにもっといろいろ経験することが必要かもしれません。と、そのように自分に言い聞かせるとともに、これが学生にとって何かのメッセージとなればと思います。 [content_block id=307]...